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1945年の太平洋戦争終結から、平成最後の夏となるこの8月で、73年を経た。現在でも残る疑問のひとつは、明らかな国力差にも関わらず、なぜ当時の指導者層が日米戦に踏み切ったかだ。陸軍の暴走に政府、海軍、宮中、さらに世論までが引きずられていったかのようにも映る。しかし早期開戦を主張し続けたのは、実は海軍主流派だった。
大臣・総長・司令長官を歴任したエリート
森山優・静岡県立大教授は「昭和史講義 軍人編」(ちくま新書)の中で、海軍主流派の行動は「それなりに論理的整合性が高い」と分析する。それがなぜ「全海軍を失う結果」(森山教授)に終わったのか。海軍の挫折は、急変する経営環境に対応していかなければならない現代企業にも、多くの教訓を与えてくれそうだ。
真珠湾攻撃の山本五十六・連合艦隊司令長官や終戦時の米内光政海相に比べ知名度は劣るものの、海軍で主流派中の主流といえば永野修身(1880~1947)軍令部総長の右に出る軍人はいない。海軍における最高ポストは軍令部総長(統帥)、海軍大臣(軍政)、連合艦隊司令長官(艦隊)の3つ。森山教授は「70年を越える海軍の歴史で3ポストを歴任したのは永野だけ」と指摘する。昭和期に皇族を除いて唯一、生前に元帥にまで昇進したエリート中のエリートだ。
屈託がなくて侠気があり、秀才型官僚軍人とは一線を画していたという。頭脳明晰(めいせき)で「自称天才居士」と言われるほどの自信家でもあった。海軍兵学校長時代には改革派として「従来の一方通行の暗記型から自学自習を旨とする米国流のダルトン・プランを導入した」(森山教授)。その永野が41年4月に軍令部総長に就任すると、海軍中堅層とともに対米開戦派の中核となった。
当時の第2次近衛文麿内閣は37年から始まった日中戦争が長期化し、中国に同情的な米国との関係も悪化していた。41年6月には独ソ戦が開始。7月には第3次近衛内閣を発足させて対米関係の改善に取り組むが、同月の仏領インドシナ南部進駐が米国の反発を呼び、8月の全面禁輸を招いてしまった。森山氏は「「米国の大きな反発はないと思って進駐を進めた陸海軍の軍人のほとんどが、米国の強硬姿勢に驚愕(きょうがく)した」と指摘する。
「戦機は今、3年後は不明」
永野は昭和天皇に対米早期開戦を進言した。これは及川古志郎海相ら他の海軍首脳部にとって予想外のハプニングだった。それまで陸軍がソ連(当時)を、海軍は米国を仮想敵国として軍需予算を獲得してきたが「対米戦、とくに長期戦を戦う実力がないことは海軍首脳部や戦備の実態を把握している現場の将官たちの共通認識だった」と森山教授。さらに日米交渉における一番のポイントは中国本土からの撤兵問題だ。森山教授は「撤兵問題で日米が戦うのは愚かなことだという考えで海軍は一致していた」と言う。
永野はなぜ早期開戦を主張したのか。米国から石油の供給が止まれば平和時2年、戦時1年半しか貯蔵がないため「日米間の軍事力の差が広がる前の有利なうちに、戦争した方がよいという考えだった」(森山教授)。
昭和天皇から日本海海戦のような大勝利は難しいであろうと尋ねられると、永野は「勝ち得るや否やもおぼつかなし」と答えて天皇を驚かせたという。天皇側近の木戸幸一内大臣らは「あまりに単純」「捨てばちの戦い」と冷淡に批評した。多くの指導者層が木戸と同じく永野の主張を聞き流した。
当時の日本は宮中、内閣、陸海軍らがそれぞれに組織利害を主張する分権的な政治体制だった。対米戦までの約1年半で、実に10回もの「国策要綱」が策定されている。激動する国際情勢に臨機応変に対応しようとしていたとみることもできるが「両論併記と決定を先送りする『非決定』が行われていた」と森山教授は分析する。
日米首脳会談での解決に望みをかけていた近衛首相は米国側の会談拒否にあい、10月に退陣。代わった東条英機内閣は、昭和天皇の意をくんで外交と戦争準備を並行させる方針をいったんは白紙還元したが、結局は外交を打ち切って戦争へ向かっていった。
永野は重要な会議で「戦機は今、3年後は不明」「英米を屈服させる手段は無い。結局は国際情勢の変化と国民の精神力による」などと繰り返した。
(続きはソース)
8/13(月) 12:31配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010000-nkbizgate-bus_all
その通りなんだか、それはアメリカもまた同じ
日本を過小評価し、中国を過大評価し、ソ連を信用した
そのため開戦するにはよほどの理由が必要で
運悪くかなり複合的に開戦の要因が重なってしまった
自分達はハワイまでえっちらほっちら行けてるのに
一部は力の差は把握できてても全体としては判断出来なかったんだろうな
アメリカ東海岸からパナマを経由して、西海岸に、
そして、ハワイを経由して、日本への攻撃だからな。
あまりにも長距離。
精神力で勝てると思ったんだよw
と日米が言えるときが来るのを待つしかないんだよ。
戦後すぐにそうなったけどね
北チョン笑えないぜwww
あの時代に「ひょっとしたら戦争を避けられたかも」というのが一番のお花畑だわ
なんで不可避と思えないのかが理解できない。
戦争自体は敵性国家とは常にやってるんだよ
でも滅ぼされてない
だから武力衝突が不可避なのはありえない
しかし、殺しに来たら殺さなければならないだろ
アメリカにとって日本は自分を殺しに来た存在だった
責任は双方にあるが、具体的行動に移したのは失敗でしかない
日本視点の書き物ばっかりみてるからそうなんだよ
アメリカも戦時国債、鉄くず集めて必死。あの国は死者が10万人こえると厭戦ムードで左翼が暴動おこすんだよ。
硫黄島のところでもう悲鳴だらけ。南雲がバカやんなければ余裕で早期講和
そこでドイツがソ連を2年以内に屈服させれば、米英が妥協を図る可能性あると。
だが3年経過してしまったら、勝ち目はない。
こんな状態でも開戦しなけりゃならないほど、体制が硬直してた。
止められる者がいたとしたら、天皇だけだったか。
官僚さんたちっていうのはそういう生き物
竹槍で鬼畜米英を押す
神風が吹く
真珠湾攻撃で、米国世論がどう考えるか予想していない、相手を団結させてしまった馬鹿!
打開するため、領土を広げ止まらなくなった
植民地にされましたとさw
やっぱりバカ軍人が仕組んだんじゃないか